米沢らーめんの歴史

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米沢らーめんの発祥

米沢のラーメンの発祥は、関東大震災(大正12年)の数年前に、チャルメラを吹き、屋台を引くラーメン売りの中国人(3、4人)がいたというのが始まりとされています。お隣の喜多方も同じような発祥の歴史があります。その後彼らが間もなく店を構え、大正末期には上海軒(門東町)、来々軒(粡町辻西)、朝日軒などに続いて、屋代町・住之江町・駅前にもラーメン店が開業していきます。一方、関東大震災の年に、門東町にあったカフェー「舞鶴」の調理人常松恒夫が日本人では初めてラーメンを売り出します。九州出身の常松恒夫は、東京築地の政養軒でコックをしており、和・洋食の他、支那料理もこなす腕の良い職人であったと謂われています。

その後、米沢在住の中国人は、日中戦争勃発などで帰国させられますが、中国人に習い覚えたラーメンをだすお店が出始め、昭和9年頃には、米沢人による食堂、福留軒、米喜代、喜養栄、太陽軒(富よし)、フジ食堂等が開店します。その後、市内食堂でラーメンが定着しました。しかしながら、大正後期から昭和初期にかけて米沢は凶作・水害・大火に見舞われ、さらに、基幹産業の米織の不況・世界恐慌に続き、第二次世界大戦の経済統制で停滞を余儀なくされます。ようやく戦後の食料統制の解除を受け、昭和25年頃からあらためて活性化しました。その後、ラーメンの需要の拡大により、現在「米沢らーめん」を提供する飲食店は、市内に100軒以上の賑わいをみせております。 ※福留軒、喜養栄の2軒が現存しています。ちなみに、福留軒さんは米沢でのワンタンの元祖です。

縮れ細麺秘話

米沢の縮れ細麺の由来として、調理人の常松さんが、奥さんの米織の生地を皺くちゃにしてしまい、どうしようと顔を埋めたときに思いついたとのエピソードを皆さんも聞いたり、読んだりしたことがあると思います。お話としては大変おもしろのですが、ちょっと出来すぎのような気がします。

では、米沢の縮れ細麺はどうやって出来上がってきたのでしょう?私見ですが、以前、米沢らーめんの歴史について先代の羽前路あいづやのご主人にお話をお伺いしました。その時のお話しでは、先代が年少のときラーメン打ちを手伝っていた頃は、米沢でも(佐野ラーメンで有名になった)青竹打ちだったそうです。

青竹打ちの場合、製法の都合上、当然多加水麺になり、扱っている内に自然と軽い縮れがつくのです。それを約100年の製麺の歴史の中で、特にスープとのバランスから手揉みで縮れ細麺に特化させていたのではないかと想像しています。